犯罪報道について
(2006.6.11)

 大阪の某番組で、橋本弁護士が「裁判で有罪が確定するまでは加害者の実名報道はしてはいけない」と発言していた。これに対して、「アホか」敵な激論がかわされたわけだが、みなさんはどう思うだろう。意見が分かれるのだろうか。反橋本だろうか。
 オームの松本被告の事件では、多くのオーム信者が今も元教祖の無罪を信じているそうだ。裁判を大きく分けると、有罪か無罪かを争う裁判、罪を犯したのは明らかであってその量刑の大きさを争う裁判、の2つになると思う。裁判制度も変わりつつあるようだが、大切なのはまず犯罪認定してしまうことだと思う。まず有罪か無罪を速やかに決める。確たる証拠、証言、供述がある裁判の方が多いはずだ。有罪と認定されたものはそこから量刑を争う。すぐに犯罪認定できないものは有罪かどうかを争う。という2段階の裁判制度にしない限り、先の橋本弁護士の発言には結論が出せないはずだ。この制度改革により、今も元教祖を信じる哀れな信者たちへの救済的対策もとれるようになる、と思うのだが。
 番組中で四面楚歌になってしまってた橋本弁護士の意見には基本賛成だ。罪を犯したかどうかがはっきりしない段階での実名報道はしてはいけないことだと思う。しかし無駄に長いだけの裁判がまだまだ多い中で、有罪確定までは実名報道を控える、などという正論を実現するには、誰にもわかりやすい制度変更が必要だとも思う。


刑法をイチから作り変えるとしたら?(犯罪…再犯について)
(2006.5.2)

 大阪で姉妹が惨殺された事件の裁判が始まった。ニュースでの取り上げ方も思ってた以上に大きい。この犯人は、少年時代に母親を殺し、しかし少年であるがゆえ短い期間しか拘束されず、けっきょく何の関係もない姉妹を殺害してしまった。殺人という快楽のために。
 少年法について書く。凶悪少年事件で一番印象に残るというか、ひどかった、女子高生コンクリート詰め殺人事件について書く。少年時代にその事件を起こした犯人は、少年法の恩恵によりわずかの期間で世間に放たれ、また凶悪な犯罪を引き起こした。しかし、量刑に少年時代の罪は加算されないはずだから、またすぐに出てきてもっと凶悪な罪を犯すだろう。少年たちになぶり殺された少女は、何ヶ月にも渡って監禁され繰り返し暴行され、美しかった姿形を暴力によって別人のように変形され、そろそろ死ぬから逃がしてやるか殺してしまうか、などといった笑い声まじりの会話を息も絶え絶えの中で聞かされ、いよいよ殺されようとしたそのとき、犯人に「ありがとう」と言ったのだ。殺してくれてありがとう。この苦しみを終わらせてくれてありがとう、と。そんなやつらを、野放しにしておくなんて法律があっていいはずがない。
 少年法には問題がある、日本の刑法自体に問題がある。死刑の下は無期懲役。無期懲役になった人間が、模範囚、恩赦などの理由で十数年で刑務所から出てくる。それでいいのか。
 面白がって人を殺したり、自分の快楽のために他人を死以上の辛い目にあわせたような人間は、年齢に関係なく、精神の異常に関係なく、殺すべきだ。殺意を持って人を殺す以上の罪がそこにあるし、再犯の可能性も極めて高い。(殺意には、復讐などの、肯定してはならないが同情するに充分なものもあるはずなので)
 罪は、殺意があったもの、殺意がなかったもの(事故や過失)、面白半分にやったもの、の少なくとも3種類に分けるべきで、量刑もそれに応じて変えるべきだ。特に重い罪は。無期懲役なのに恩赦で釈放されるなどという非常識を無くすことも大事だと思う。
 少年法それ自体がナンセンスだとも思う。どうやったら人間は更正するのか、そのプロセスさえわからないのに、年齢だけで罪を問われないのは変だし、少なくとも、少年法の適用除外案件(先に述べたような、面白半分の重大犯罪)を設定すべきだ。また、罪を問わない年齢設定をするのなら、その犯罪責任は、誰がなんと言おうとも親にとってもらうべきだ。でなければ、重大犯罪の被害者やその家族の気持ちの持って行きどころがないではないか。
 精神鑑定についても同じだ。人権派などと息巻いて、正義の味方づらして再犯の可能性が極めて高い犯罪者を社会に野放しにするような弁護士は、その犯人が重大な再犯を犯した場合は裁かれるべきだ。そのくらいの自信と責任なしに、精神鑑定を行うのはあまりにも無責任だ。
 以前から疑問に思っていることだが、あえて「キチガイ」と書くが、重大な事件を起こしたのに罪を問われなかったキチガイが、その後の治療で安全な人間として完治した例がどれほどあるのか教えてほしい。それこそ人権派弁護士さんの仕事だろう。そんなに大きな数字になりはしないと確信している。



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